木々のささやき まごころを贈る パンの木輪 北九州市 八幡西区

 
 
木々のささやき
 

パン造りを「楽しむ」

 私が、パンの修業を終えるときに、「知(ち)・好(こう)・楽(らく)」と書いてある絵馬を修業先の店主からいただきました。

 修業を終えてこれまで15年間、いつもそばにありながら、気にとめておりませんでしたが、最近、何かしら気になり本当の意味や、その3文字の奥に秘められた、意味合いを考えてみたくなりました。調べてみますと、出典は、孔子の書かれた「論語」の「雍也第六」というところに書かれていました。子曰く「之を知る者は、之を好む者に如かず。之を好むものは、之を楽しむ者に如かず。」とありました。「(対象を)を知ることは、(対象を)好むことには及ばない。(対象を)好むことは、(対象を)楽しむことには及ばない。」と訳されております。
 「知る」ことは、その存在を知ることでありその対象物との関わり度合いは、浅いものと思われます。
 それが「好む」となると「知る」ことよりその対象物との関わり度合いが多少深まりそこには、個人的な感情も入り込んでくるようです。「知る」ことから最終的な「楽しむ」ことへの移行したいと思う熱心さが「好む」という状態をつくっていくのでしょうか。
 最後に「楽しむ」とは、その対象物と深く関わりを保ち、一体となって心から楽しむことであり、場合によっては、その対象物の存在すら感じなくなるくらいの心の状態を言うのでしょうか。

 これを私のパン造りにあてはめてみますと、17年前に脱サラしパンとの関わりをはじめて以来「知る」時期、「好む」時期がそれぞれあったように思います。パン造りを始めて「おいしいパンを造りたい」という思いから、パンに関する事を多く、知識として、がむしゃらに蓄積していきました。それは、今振り返ってみますと、ゼロからの積み重ねのために貪欲にひたすら知識の吸収に大くの時間を費やし努めていました。そうするうちに次第にパン造りが好きになってきました。それは、それまでひたすら知識として吸収してきた事柄が1つ2つと実践面で裏付けできるようになり、1つの現象を見ても結果をある程度、予測できるようになってきたからです。知識と実践の結びつきができはじめたとき、パン造りのおもしろさがわかるようになってきました。しかし乍ら、現在に至ってもなお、なかなか、「楽しむ」領域には達しません。「パン造り」と私の「心」が一体となり「無心」でパン造りに没頭することが少ないように思います。パン造りをしていても、いろいろなことが頭をよぎります。経営者としてスタッフの指導、お店の様子、その時々のいろいろな決裁等々・・・。なかなか無心になってパン造りに専念できません。しかし、私の求めるところは「楽しむ」領域です。なかなか「無心」になれない環境であっても1日のうち1時間でもパン造りに無心になり、私の心と一体化する体験をしてみたいと思います。パン造りを「楽しむ」ことによってパン造り全体がもっと明らかになっていくように思います。パン造りを「楽しむ」ことを私の愉しみにしたいと思います。

 
 

2003年08月 第151号より

芳野 栄

 
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