人生の分岐点 −あるがままに− |
人生にはよく、「もし、あの時・・・だったら」という事があり人生の分岐点がいくつもあります。 まず一つ目は、サラリーマン時代の昭和五十八年三月の東京への転勤。それまでは関西中心の勤務で技術開発の仕事をしていましたが、急きょ東京への勤務を命ぜられ、営業が受注した仕事の工場への割り振り、外注発注、技術サービス等を仕事とし、小さな所帯ながらも自分で損益の予算と実績の管理をまかされました。今にして思えば東京での勤務がなければ「経営する」と言う魅力も感じれなかったし、脱サラは、あり得なかったでしょう。 東京での勤務を続けるうちに、成果があがるにつれて、会社の力ではなく、自分の力がどのくらいあるのかためしたくなり次第に「脱サラし、独立しよう」という思いがふくらんできました。そこで脱サラするのに自らに一回きりのチャンスを与え「ある資格試験に合格したら脱サラしよう。不合格の場合は、このまま、サラリーマンを続けよう」と決めました。 結果は、努力の甲斐あって、「合格」脱サラを決定しました。二つ目の「もしあの時・・・であったら」は、 「もし資格試験に合格できなかったら」で「合格」が人生を変えてくれました。 いよいよ、脱サラ。パンの修業先は、西宮市にある小さなパン屋さん。そこの店主も実は、私より二年前に脱サラ。 私と違うのは、独力で主婦の読むパンの本を片手にパン屋さんを始めたところです。そこで二年間、パンの勉強をさせていただきました。店主もパンについては素人。二人の素人が頭をくっつけ合い試行錯誤の日々。店主は私に「パンの基礎、基本を学んだあとは、パンはこうあるべしを否定し、独自の製法、考え方を大切にしなさい。心を込めて造ることだけは、誰にも負けないように。素人の造るパンを買っていただくことに大いに感謝するように。」ということを強く教えていただきました。木輪では、「創作」「真心」「感謝」を社是としておりますが、これらは、店主細川浩さんからたたき込まれた貴重な財産となりました。今にして思えば「もし、細川さんという方に出逢えなかったら」「 もし素人の小さなパン屋さんでなく、大手のパン屋で見習いとしてスタートしていたら、現在の木輪は存在していなかったと思います。
|
2003年02月 第145号より 芳野 栄 |